3 講演 の記録
皆さんこんにちは。静岡から来ました堀田です。ぼくが来たのは静岡県、この写真のように富士山がきれいで、今、台風が来てまして、赤いところがぼくの住んでいるあたりなんですけど、ほぼ直撃。さっき1時45分に新幹線が完全に止まったという話で、そろそろ帰ろうかなぁと思っているところです。

なので、結論から入りたいと思いますけど(笑)、今日伝えたいことは2つあります。
1つは、メディア社会、大雑把に言うとメディア社会ですね。今のぼくらが暮らしている、あるいはこれから子どもたちが暮らしていく社会の現状を、私たち大人、これはつまり教員だけじゃなくて、保護者とか市民みんながという意味ですけど、ちゃんと認識しましょう、このことをまず1つ目伝えたい。まぁ大人は知っているんですけれども、知っているんだけどそれがおおごとだということがあまり感じられていなかったり。教員は、でもあまり実はそのことに、社会の他の職種の人に比べると気づいていなかったりしますので、この辺が1つ目のお話。
2つ目。それを教育していく、指導をしていくときには2つの活動をちゃんと一緒にやっていかないと偏りが出ます、不適切になります、そういう話です。2つの活動というのは、子どもたちが自分たちから情報を伝えるという活動と、人が発信した情報をきちんと読み解くという活動、この2つの循環をきちんと、やっていかないといけません、という話をしたいと思います。
そろそろ終わっていいでしょうか?(笑)駄目だというので、先にいきます。
講演の段取りとしては、今の2つの話とまとめ、ということにしたいと思います。途中でビデオを少しだけご覧にいれたいと思います。

メディアと私たち、メディア社会と私たち、みたいな話をしますけど、例えば、これは富山のある先生ですが、これは3年生を教えていて、4年生かな、資料集ですね。「ここなんだけど、みんなほら、みんなのにもあるでしょ?」と。まずページが分からない子がいる、ページが分かってもここっていうのがどこだか、先生の指がよく見えなくて分からないですね。なんて言うんで、この先生結局どうしたかというと、大写しにしたわけですね、実物投影機で。
どうでしょう、みなさんここにいらっしゃる方の多くは学校の先生だと思いますけど、実物投影機で大写しにすると、子どもにとって、よく分かりやすくなる、かもしれない、というシーンってありますよね。あるんですけど、実物投影機がなかったりするんですね。
で、何て言うかなぁ、分かりやすく子どもに勉強を教えるというのはぼくらの仕事です。何だけれども、それを便利にする道具は必ずしも揃っていない。文部科学省はそれを揃えようとしているし、岡山県なんてそれの先進的な県ですね。しかしながら今度は、そういうのが来ると面倒くさいからとか、そういう感じで実は拒んでいる、教員の側が拒んでいるというときもあります。
これ、メディアですよね。人に何かを伝える、子どもたちにきちんと分かるように教えたい、その時に先生が大写しにするという、そのメディアの特性をうまく使って目的を達せようとする。非常に当たり前の前向きの行為なんですね。
世の中でIT活用とか言われますけど、例えば作文の用紙の指導、こういう原稿用紙の書き方の指導なんてのも、こういうふうにただ写してそこに書いて見せるだけで、子どもたちは手元と比べながら勉強を進めていくことが出来る。これの、「右から2行目の上から3番目」とか言って、もう分からないですね。分かる子はなんでもないですよ。分からない子にどうするかがぼくらの課題ですよね。
見せれば分かる。
例えば、4年生の折れ線グラフで、一番変化が大きいのは何時から何時までの間ですか?なかなか分からないですよね。急なところです。なにがどう急なのか、「きゅう?」とかって「9時ですかね?」って、そういう訳分からなくなってきますよね。分かる子は大丈夫です、別に。そうでない子のために、みんなに等しくぼくらは学力保証しようとする、そういう時代に、子どもたちに分かりやすく教えたいと、どの教師も願っているし、子どもたちも分かりたいと思っているし、保護者もそれを願っている。その時に、大写しにするだけで、何かがうまく伝わるとしたら、何でそれやらないんでしょう?なんでそんな装置が教室にないんでしょう?
今、整備計画でこういうものが整おうとしています。これは別にコンピュータではありません。ただ実物投影機で大きく写しているだけですけど。そういうのをもっと学校現場の声として、ぼくはどんどん要求していくべきだと思うんですよね。なんだけれども、入ってくると面倒くさいとか思っている人がいる。それはある意味メディアの拒絶です。メディア社会にあって。
ぼくたちはメディア抜きで生きていくことなんてできないんですよ。
例えば、TVを見ない人いますか?すごいポリシーがある人は、まぁいるかもしれません。でもなんとなくつける、真剣に見ようと思っていなくてついているでしょ、家で。で、ニュースが流れてきて、学校に行く前に「めざましTV」で今日の占いで1位だったら見るけど下の方だったら見ないとか、いろいろあるわけです。いろいろあるのかどうかよく分かりませんけど。そういう何て言うかな、付き合っているんですよね、ぼくらはメディアと。毎日毎日。
なんだけれども、こういうシーンになると、実はあまり取り立てて使われていなかったりします。
この先生の授業、例えばこれも教科書を大写しにして、それで子どもたちに直角をどうやって、ここが直角ってどうやって言うかというときに、三角定規を当てているだけですけど。教科書を大写しにしてね。この三角定規のこの直角ところを教科書に当てるということ1つでも指示が大変で、どうですか皆さん、「隣の人と比べてみましょう」と隣の人と一緒に間違ってたりしてね。大変なことになるんですよね。なので、机間巡視をしますよね。机間巡視をしている間にあっち側がわーわー言って、「おまえら、静かにしろ。算数はな・・・」とやっている間に、チャイムがなって終わると。大変でしょう?
あったら便利なんですよ。だれにとっても便利。何だけれども、なぜ使わないんでしょう、ないんでしょう、っていうところですね。
これはぼくらが教師という仕事をしていて、それが子どもたちに勉強を分かるようにする、そういうある意味使命において、仕事においてITを使う。企業で仕事においてITを使う、当たり前でしょ?それがまだ十分に保障されていない、ぼくらも訓練していない、ということが問題にあります。
一方、子どもたちが情報を伝える、あるいはITを使うみたいな活動も情報教育の文脈でたくさん行われています。
これは、小学校3年生で初めて棒グラフを習うとき。棒グラフの書き方を教えます。算数ですからね。書き方を教えますが、書くネタが与えられた表で、運動場に7人、とかね、「なんで運動場に7人しかいないんだろう」とか疑問に思っちゃいけなくて、運動場に7人なんとかが6人とかって、あんまり意味がないですよね。だけど書き方を教えるっていうには、書きやすい素材じゃないといけないから、最初はこれでよい。その次のその次もずっとリアリティのない素材だったら、子どもたちは、これをいったいどこで学習で使うんだろうと分からない。
この授業は、後でお友達にアンケートをとらせて、そのアンケートの結果を棒グラフにしている、という様子です。なので、棒グラフの使い方が分かった後に、棒グラフを使うシチュエーションを場面を、体感させている。生きて働く力にしたいわけですよね。
だから、こういう力がついてくると、棒グラフの読み取り方を知っているだけじゃなくて、こういうときには、こういう棒グラフに表すと自分たちのデータが上手く伝わる、分かりやすく伝わるという学習でもあって、これは算数教育だけど、ゆくゆくは情報教育になり、メディアとのつきあい方につながっていく、そういう学習の場面。さっきもどなたかおっしゃっていましたけど、なんでもない学習の場面、たくさん実は、日ごろの授業の中にあります。
こういう学習多いですね、最近ね。友達に分かるように発表しましょう。大きい声で、顔の表情、まぁそういう話をしますけど。ときどき先生が、「いいですか。皆さん分かりやすく発表してください、分かりやすく発表してください」と連呼して、「それが分かりにくいよ」と後ろでぼくは思ったりします。
分かりやすく発表するとはどういう風に発表することなんでしょうね。そのことをあんまり意識せずに、分かりやすく、分かりやすくと、スローガンのように言っても、あまり意味がないですね。
分かりやすくするっていうのは、どういうことをすることか、子どもたちにきちんと教え、そしてさせながら出来るようにさせて、子どもたちこれから、分かりやすく相手に伝える、伝え合う学習、国語でも大事にされていますけども、そういう学力としてね、子どもたちもこういう力をつけていく。
そして、こういうときにデジカメで伝えるとか、パソコンのプレゼンで伝えるという学習に移っていきますね。
例えばこれ、この学校では3年生が、3年生くらいだと大きい声でみんなで役割を分担して発表する、みたいなこと。一応話の流れは話し合って、リハーサルもして、この子たちは小道具、クイズっぽくして小道具を持ったりしてそれなりに工夫しています。まぁ、嬉しそうですね。
5年生になるとこの学校では、ニュースキャスターになろう、というのをやっています。これは、国語の学習にもありますし、社会科でもこういうニュース、情報を扱う単元ありますよね。
これはニュースキャスターに、「ファミマのすばらしい真相」とよく分からないんですけど、「ファミマ」ってファミリーマートですね。コンビニを調べてきて、コンビニの色々なことについてみんなにニュースとして伝える。このニュースとして伝えるというのがミソ。ニュースとして伝えるから、アナウンサーはどうやってしゃべってる、分かりやすくしゃべってる、スピードはどのくらいか、時間は決まっているよ、全部は出せないよ、何か後ろに字が出るよ、あるいは写真が出るよ。
そういうようなことを追体験することで、ニュースってこうやって作られているんだ、全部は話せないんだ。そういうニュースを読む、見る、今までいつも見てるんだけど眺めてるだけなので、ニュースをよく見てみるという活動を、ニュースを作るという活動と一緒にやっているわけなんですよね。
これがさっきの伝えるということと、ちゃんと読み解くということと一緒にやっていかないと駄目ですよ、ということなんです。
一緒にやっていかないとどうなるかというと、自分は伝える苦労もせずに、「大体TVは伝え方が駄目だね、NHKが駄目だね」とか、今NHKの人いるんですけど、そんなこと言ってしまったり、「新聞はおかしい」と言ってしまったりする。伝える工夫も、読み解く学習なしで伝える工夫だけをしていると、思いよがりというか、自分の一生懸命工夫したんだから、なんでみんな聞いてくれないんだろう、みたいになってくる。
プロはプロで伝える技術を持っているからプロなわけで、そういう人たちの伝える技術を学びながら、自分なりの工夫に取り入れていく、そういう循環した学習が必要になるわけです。
こういう教師もITを使う、子どももITを使う、さっきのスライド、言い忘れましたけど、Power Pointで作っています。Power Pointでどういうふうに作ればよいかという学習も含んでいるということですよ。

そういう授業が出てきたし、ぼくらの周りでもインターネットというのはものすごく普及していますよね。
赤いところは大企業でのインターネット普及率です。98.2%ですね。世帯の普及率が今88.1%。地域差は多少ありますけれども、東京だけが進んでいるという時代はもう通り過ぎて、地方が追いついてきたという時代です。インフラがどこまで整っているかとか、回線速度がどうかということは、まだ地域によって差はありますけれども、およそインターネットが届いているという意味では、だいがいの家庭に届いている。その時に、親が若い分、子どもたちはインターネットに触れやすいですよね。
例えば、30代の保護者は、30代の社員とかになれば、だいたいITが使えなかったらやっていけないので、もう使っています。で、その家ですから、パソコンがあったりします、普通に。子どもたちはそれを触っています。そして、上手です。そして、いけないところにいろいろアクセスしたりします。
それは、いけないってだれが教えるんでしょうね?親の責任はあるでしょうね、1つ目は。もう学校では教えなくていいんでしょうか?今そういう教育が必要となっている。むしろインターネットが普及したからこそ、きちんと情報社会の光と影を両方教えなければいけないという時代になっている。インターネットから子どもを遠ざけて、「学校では使わせません」とか言っても家で使うんです。そのこと方が問題です。だから、学校でちゃんと使わせて、ちゃんとした使い方を教えないと、家で大変なことになる。

PTA協議会は、こういうアピール文を出しています。携帯電話に関するアピール文。
これ、HPに載っていますけど、「すべては親であるあなたの責任です。出会い系サイトがあなたの子どもを狙っている」、PTAのお父さんの中には出会い系サイトアクセスしている人もいると思うんですけど、やっている人もいるかもしれませんね、自分が営業を。
いろいろな制限がありますよとか、いいこと書いてあるんですけど、最後に「親子のルールをつくろう」と書いてあります。家庭のTVを見る時間とか、そういう一種生活とメディアの関係では、家庭のルールというのがやっぱり大事ですよね。だから、インターネットの使い方も家庭でルールを作ってください。学校でも言ってますか?先生じゃぁ、どうやってルールをすれば良いんですか?先生方アドバイスできますか?TVと同じように今普及しています。学校にそういう期待がされています。
こういうことに対して、ぼくらが無頓着で、ある意味評論家のように、「だからインターネットは危ないんだ」と言っているだけで済ませてこなかったか?
ぼくがメディアとのつきあい方学習をもっとやるべきだと言い始めた訳には、こういうことが背景にありました。

これは、ある中学校での昼休みのパソコン室です。この学校に初めてぼくが伺ったときに、校長先生は情報教育についてほとんど知らない方なので、ぼくと初めて会って、ぼくのことももちろん知らないわけですけど、「パソコン室が新しくなって良いんですよ。」と案内いただきました。子どもたちが昼休みに自由にパソコンを操っている様子を見て、「すごいでしょ」と何回も何回も自慢していただきました。
子どもがアクセスしてたのは、こういうところでした。これは子どもたちが好きなバラエティ番組ですけれども、ぼくも好きなので見てるんですけど、北陽というコンビのプロフィールとかいろいろ書いてあります。昼休みです。学校の活動の中の昼休みです。昼休みは休み時間だからまぁいいのかなぁ。校長先生は「はねるのトびら」を知らないので、「いろいろなHPを自ら見つけてきてすごい」と思っているわけです。
隣の子はこういうことをやっていました。これはネットゲームです。ガンガンにやっていて興奮しまくりでした。校長先生はこのときは、あんまり何も言いませんでした。これは、もしかしたら何かいけないのかもしれないと、ちょっと思ったのかもしれない、ゲームかもしれないと。これはゲームなんですけどね。「ゲームみたいなのを学校でやってる、というのを堂々と紹介している俺は何なんだ」と、ひょっとしてちょっと思ったんじゃないかと思います。
その横はこういうことをやっていました。これは罵倒型ゲーム、あそこに入れると、どっちがより罵倒するかという対戦型の罵倒ゲーム。掲示板みたいなチャットみたいなやつですけれど。中学校ですよ。大丈夫なんでしょうかこの中学校、と思いましたけど。
こういう話をすると、「だから昼休みはコンピュータを使わせないほうが良い」という話になるんですけれど、ちゃんと使わせてください、と言いたいんです、ぼくは。こういうのを見逃していくとどうなるか、ゆくゆくはね、ということです。もはや学校の昼休みである以上、学校の責任ですよ。休み時間、遊び時間みだから良いんだ、じゃないと。ITを自分たちがどう正しく使い、そしてどういうふうに情報社会と向かい合い、その中で、ぼくらはどう生活していくのか、そのことを中学生に考えさせずして、情報教育をしていると言えるんですか?ということです。
コンピュータ教育じゃないんです。情報教育ですよ。情報と私たちを考えさせないと。コンピュータの操作だけを教えても何の意味もないということなんですね。

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子どもたちが検索して出てきたページは2chのURLばっかりです。2chって分かりますか?ちょっと手を挙げてもらいましょう。2chというHPを知っている人?すばらしい。みんなそんなに見てるんですか?大変なことですね。2chというのを毎日見ている人もこの中にいるかもしれません。時々ぼくも出てたり、ぼくも出ていると言ってもぼくが書き込んでいるのわけじゃなくて、勝手に誹謗中傷されたりします。木原先生のことも今日あたりぼくも書いてみようかなと、思いますけど。これは大変なところですよ。たぶん今、世界最大だと思いますけど、少なくとも日本では、最大の匿名掲示板。
さっきもいったように、低年齢の子どもほど、保護者が相対的に若いので、家にパソコンがありインターネットにつながっている確率は高い。今の高校生よりも今の小学生の方が危ないです。しかも分別がついていない時に、操作能力はすぐ上がります。操作能力が上がらないようにしても、何の意味もありません、家で覚えるんだから、どうせ。
そして2chカルチャーにみたいなのに触れます。こういう青の顔文字みたいなの見たことありませんか?子どもたち書きませんか、ノートとかに。みんな2ch見てるんです。
ぼくの子どもは中学生でHPを持ってますけど、友達とリンクしていて、そのお友達のHPのリンクには、2chはこちらと書いてあって、うっかりぼくもクリックして見てみましたけど。うちの子供は、お父さんに怒られるかも知れないと思っているから、見ててもリンクには入れません。良いのかどうかよく分かりませんけど。やっぱり親はどうなんでしょう?子どもたちが家で2ch見ているかどうかちゃんと見ていますかね?そして、ちゃんとそれに対して意見を持ち、正しい道を指し示していますかね?学校では、そういうことを話題にしていますかね?
とにかく、大変なことがここでは起こっていて、様々な事件、例えばなにか不幸な事件があると、その不幸な事件の犯人の顔写真とか、法律的に禁止されている、住所とか通っていた学校、その学校のHPにリンクが貼られてたり、ということがいっぱいある。まぁ匿名ですから、本当のことだけでなくて、嘘も思いこみも、思いつきも、みんな書けますので、どっからどこまで本当なのかさっぱり分からない。みんながたくさんスレッドと言うんですけど、掲示板を見てると思うと、便乗して自分のページを見て欲しい人とかが、いっぱい「ここも良いぞ」と書いてくる。で、そこをリンクをクリックすると、アダルトサイトに行ったりする。そういうことが普通に起こっている。
心が豊かに育っていない段階で、ここに子どもがアクセスするんです。そして、これがリアルワールドだと思うかも知れない。こういうことに対して、いま学校はどういう構えでいるんでしょうか?
ネット社会ってね、良いところもたくさんあるんです。インターネットで便利なことがたくさんあります。光のことはきちんと子どもたちに教えていかなければならない。これからIT社会を担っていく存在です。だけども、良くない事もいっぱいある。良くないことのほとんどは実は大人がやっています。それもまた現実で、そのことを子どもたちにきちんと教えていかなきゃいけない。
道徳を子どもたちに指導していて、道徳は指導というのか分かりませんけど、道徳をやっていて、「でも先生、大人がやっているよ?」という時ほど、むなしい時はないですね。
でも子どもたち「でもあなたはどうするの?そういう大人になるの?」となりますよね。同じようなことをやっている。チャンネルが1つ増えただけです。インターネットというチャンネル。そしてそのチャンネルには子どもたちをひきつける刺激的なことがたくさんあって、暴力シーンや、そういう不適切なものがたくさんおいてある。そのチャンネルを今までと同じように子どもたちが見る、ということに対して、学校はどうするかという課題があります。
教員研修でぜひ、みんなで2chを見てみようという研修をぜひやってみて下さい。だけど、もしそれが学校から見えたら、フィルタリングが効いていないということで、教育委員会が問題ですよ。もしかしたら、見れないかもしれない。見れないというのは適切な安全なインターネット環境ですよ。どんどん見れたらやばいですよね。やばいですけど、良い研修ができるかもしれません。

ぼくは、こういうメディア社会で生きていく子どもたちに、今すべきことは、交通安全教育のような、情報安全教育じゃないかと思っています。交通安全教育と例えるとよく分かるので、少し違うところもあるんですけども、もちろん、交通安全教育をイメージして同じように情報社会の安全教育を考えてみたいと思いますが。3つポイントがあるなと思っています。
1つ目は、学校で当然、交通安全について指導する。例えば先生が指導していく、あるいは警察に来てもらって、自転車の乗り方とか指導する。やりますよね?必要な知識を学校はきちんと与えているし、教師が指導しているしイニシアティブをとっている。何にも知識を与えずに「やってごらん」とは言わない。インターネットは、そうだったりします。何にも知識を与えずに、与えるとしたら操作の仕方だけで、そしてやらせてたりしていないでしょうか?さっき高橋先生が言っていた、それは車の運転の仕方を教えてるけど、交通法規を教えていないようなものです。それで、子どもたち事故にあわないでしょうか?ろくに泳げないのに海に行って放すようなものです。ちゃんと指導しないといけません。時には専門家の話を聞く、交通安全教育がやっているように、情報教育でもそういうものが必要かもしれませんよ。これは、プラスでもマイナスでも同じですけれど。専門家は、こうやって道路を守っているように、安全を守っているかのように、専門家はこうやってウイルスから対策しているとか、あるいは自分たちの情報が著作権の問題にならないように工夫しているとか、そういう専門家の意見も大事です。
2つ目、ガードレールを整備する。学校の回りは特にガードレールがちゃんと整備されているんですね。何省になるのか分かりませんけど、国の省庁か、あるいは県、あるいは市だったら市の整備に入っている。これは、子どもたちだけじゃなくて、大人もそうですけども、安全に守るためのハードウェア的な措置ですよね。学校で言うとこれは、例えばインターネットで言うと、さっきのフィルタリングをちゃんとしているかとか、安全な環境にハードウェア的にしているか、というようなことは行政の仕事ということになります。もちろんそれでも、ガードレールがあったら事故にならないかというと、ガードレールを突き抜けてくるようなトラックもいるから事故になるわけで、必ずしも100%安全ではありません。だけど、そこそこ安全な環境を作る、それが、行政の役割ということですね。
3つ目、それでも保護者あるいは先生が交代で朝の通学時などに、旗を持って立ったりします。これは、交通安全だけの目標だけではありません。交通安全がメインの目標だったとしても、「子どもたちと声を交わす」とか、様々な目標があります。同じように、多数の目で例えば昼休みのパソコン室、多数の目で見るようなことを、ガードレールがあってフィルタリングがされていて、青いところのように知識を与えていたとしても、やっぱりやらなきゃいけない。道徳教育のように学校教育の活動のほとんどすべてのところで、こういうことがやられていないと、子どもたちは育たない、ということなんです。
なので、学校のカリキュラムの問題ですね。指導体制の問題です。ここに来ている先生たちは、こんな休みのしかも3日連休の1日目に、新幹線が止まっていて帰れないかもしれないぼくは、何でこんなことをこんなところでしゃべってるんだろうと思いながら、皆さんも、そういうお休みを削ってここにお見えになっているわけですよね。そういう方は多分大丈夫なんです。皆さんの学校の方たちはどうなんでしょうか?学校として体制ができるでしょうか?そこが今一番苦しいところ。さっき広めるにはどうするか、やっぱり一人ではダメなんですよね。
もう1つのポイントは結局、知識が必要ということなんです。教師でもそうですけど、子どもにも。これはモラルだ、規範だといって心の指導だと言うけども、そもそもチャットというのはどういう仕組みになっていて、どういうことが起こりやすいかという知識を知らずに「気をつけよう、気をつけよう」と思ってもそれは無理です。
だから、情報教育の内容、指導内容として、メディアの特性をきちんと教えるとか、そこからやってくる情報、インターネットからやってくる情報と、TVからやってくる情報と、新聞からやってくる情報と、友達の話から聞く情報と、情報の入手の手段によってどういう特性があるか、教室での一斉指導で良いんです。別に、パソコン室に行かなくても。だけど、そういう情報の特性の指導をせずに、メディアの特性の指導をせずに、メディア社会で生きていけ、と言ってもそれは無理です。
なので、そのことをきちんと先生方が授業の場面でどう取り上げていただくか、コンピュータ室でコンピュータを触らせる授業だけでなく、教室での一斉授業の中でどうやっていくかということが重要。
さっきの元吉原小学校の実践も教室でやっていたでしょ?普通の授業なんですよ。だけど、今の段階では、木原先生もおっしゃってたとおり、社会科でもない、理科でもない、国語でもない、どこか少しずつかぶるけど。「じゃあいらないの?」というと「いや大事でしょ」とみんな言う。適切な時間がないですよね。
こういうのが似てるなと思うのは、6年生が例えば卒業式の、卒業式じゃなくても良いんですけど、なにか行事の前とかに、「6年生みんなで机を運ぼう」とかいって、机を運んだりします。ある意味ちょっと人足に使っているところがあるんですけど、アレは何の時間なんでしょう?体力づくり?特活?微妙でしょ?でもやるでしょ?そのことを教育活動にするために、「みんなのおかけで準備が上手くいってよかった」とか、するでしょ?
ハッキリ言ってぼくらは道徳教育は社会の時間でも算数の時間でもやっているし、学校の規律作りのなかでもやるし、いろいろな場面でやっているんですよ。何の時間って必ずしも明確にできない学習指導、生活指導も含めていっぱいあるんですよ。
これが大事だ思ったら、社会科とつなげられたら社会科で、国語とつなげられたら国語で、つなげられなかったら特別に時間を作ってやるべきだとぼくは思うんです。
そのことをやっていない学校は、これからどういうふうに保護者の目に映るかということを、校長先生考えているんですか?と、連休明けたら、皆さんが覚えていたら、是非言ってほしいと。
校長先生ヤバイです。このことをちゃんとやらないと、学校は。

メディアとのつきあい方学習の話しに入っていきますけど、例えば、学校で子どもたちにHPを作らせるようという学習があります。HPを作るのが簡単になってきたので、こういう学習をいとも簡単にやるわけですけど、実はHPを作る学習って言うけれども、そこから教えられることはものすごく多岐にわたります。
そして、そのHPを作っているのが小学校4年生だったら4年生なりの、中学生だったら中学生なりの、大学生だったら大学生なりの指導内容があり、今ぼくがここに出したようなこと全部を4年生で教えなきゃいけないとか、5年生で教えなきゃいけない、というわけではありません。
だけど、うっかりやっているその活動は、多様な意味を持ちうるんですね。教師が指導目的をきちんと、教育目標をちゃんと意識していないと、なんか闇雲に○○ビルダーの使い方を教えて、コマンドをいっぱい教えて、子どもたちができるようになった。その○○ビルダーが売られなくなったら、どうするんでしょうね。義務教育の時間を使ってやることなんでしょうか?みたいなことが起きる。
言ってみれば、上の方は変わっていく学習内容です。ソフトが変われば変わる、Windowsが変われば変わる、HPも技術が進めば構造が変わっていきます。HPと社会の関係、インターネットと社会の関係も変わっていきます。
だけど、下の方ほど、つまり、情報というのはそもそもすべては伝えられないんだとか、HPというのはページは限られていないけども、所詮その人が有限の時間で表したことに過ぎないんだから、全部書けるわけじゃないんだよ、なんだけどHPで書いてあったことを全部だと思っていないか?
TVで教師が不祥事を起こした報道があるでしょ。見ている親は「ほら、もう。だから、最近の学校の先生は・・・。」という言うでしょ?珍しいからニュースになっているんですよね。みんなやってたら珍しくないからニュースにならないんですよ。「今日も何とか小学校の先生は上手に教えていました」珍しくないからニュースにならないんですよ。そのことを考えたときに、市民の側が、情報を受け取る側がいかに鵜呑みにしているか、ということです。
例えば、カナダでは、アメリカからの電波がいっぱいやって来るので、アメリカから来る電波を鵜呑みにしていたらカナダ人のアイデンティティーがなくなる、だからきちんと読み取らせようという指導が、つまりメディアリテラシーの指導がカリキュラムに入っています。
日本は、人のことを信じるのが大事という、それは大事ですけど、そういうことで、結局何でもかんでも鵜呑みにする習慣というか習性というか。そして、教育でも、そのことがないがしろにされる。
ぼくは疑えといっているわけではありません。だけでも、TVというのは、限られた時間で、みんなに視聴率を上げなきゃいけないからセンセーショナルな順に放送するわけでしょ?しかもそれは1分とかでまとめなければいけないから。だから、だけど普段はこの先生よく頑張っててどうの、ということは捨てて、こういうことをこういう風に起こって、こういう風に逮捕されました、だけを伝えるわけですよ。あとは受け取る側の問題なんですよ。
これは下の方の話ですね。上の方が機器の操作だとすると、真ん中が仕組み、社会の仕組み、下の方は情報やメディアと私たちの生活みたいな話。
これは、下の方はメディアは形が変わっても、そこからやってくる情報を使ってぼくらは暮らしている、
あるいは携帯なら携帯という形は変わるけれども、そういうものを使ってコミュニケーションをしている、ということは変わらないので、根本的には変わりません。上の方ほど変わりやすい。
今はどこを指導しているのか、今HPを作るというけども、どこを指導しているかということを、ちゃんと教員側が意識していないと、何でもかんでもやっていると時間ばかりかかる。「だかITはイヤだ」みたいな非常に短絡的なことになってしまう、ということですね。
余計なことを教えるからです。だから時間がかかる。本質的なことにどう絞るかそれが授業の腕なんですよね。社会科でもそんな授業作りするんですよね、理科でもそうですよね。情報でも同じです。

<<一部省略>>

元吉原小学校の実践に学ぶことがいくつかあります。
「これは元吉原小学校の子どもたちが、みんなで遠足でアフリカに行ったときの写真なんですけど」とか言うと、「嘘、嘘!」だと思うでしょ?なんで嘘だと分かるんですか?さっき、吉野さんがネタをばらしたからですか?あの話を聞いていなくても嘘だと思います、たぶん皆さん。「遠足でアフリカはないよな」とか「というか体操服では行かないでしょ?」とかね。いろいろ皆さんの常識が働いているんです。
ぼくらは情報を受け取るときに常識と掛け合わせて正しいかどうかを見抜こうと、自然にするんですよね。
でも、子どもはどうかというと、そうでもないんですよ。だから、合成写真があることが分からない、気づいていない。自分たちに作らせてみるから、「えっ、こういうのあるかな?」と見てみると「あー、あるある。これきっと合成写真だ」と。そして、社会認識が深まるんですよね。
さらにこの学校では、さっきも出ていましたけど、作っているところはハサミとノリなんですよ。必ずしもこれはITではない。それでも、デジカメで写真を撮って取り込んで印刷をするということをさせるので、実は情報教育の中のコンピュータの操作の教育もやっている、同時に。だけども、一番ややこしいことはハサミとノリでやっているわけですよね。

みなさん、本質的なこととして考えて欲しいことがあります。それは「情報」と「データ」は違うということです。それは、どういうことかというと、例えば、「笠岡駅前にいいマンションができたんですよ、堀田先生」と言われても、もう来ないかもしれないしなぁと、いや来ますよちゃんと、来ますけど、でも別に買わないです。でも、もしかしたら他の人は、笠岡市の先生は、「えっ、それ何LDK?」とか「いくらかな?」と思うかもしれません。でも同じ笠岡市の先生でも、こないだ家を建ててローンが何千万もある人がこれを聞いても、「そんなの無理に決まっているでしょ!」と逆切れしたりするかもしれません。フランス人のひとがこれを聞いても、何を言っているかも分からないでしょうね、きっとね。
つまり同じデータがあっても、情報になるかどうか、それが有用であるかどうかは、受け手で決まるんですよ。
良いですか?
情報を発信する人の批判ばかりをしているけれども、情報を受信する人の鍛えをぼくらはしなければならない。情報の価値というのは、受け手が決めています。これが情報の本質です。受け手が決めるから、こっちは工夫して発信するんですよね?そうでしょ?それがコミュニケーションです。

他にもメディアによる影響がたくさんあります。
例えば、最近携帯が多いです。うちの学生なんかを見てても下宿先に普通の電話があるなんてほとんどレアケースで、みんなだいたい携帯ですね。
携帯で、ぼくなんかすぐ携帯で電話すると「もしもし、堀田ですけど」って言うんだけど、堀田って知っているんですよ、向こうは。だって、堀田って出るから。堀田って出るから出ないとか、切るとか、いろいろやられてるはずなんですよ。やけに連絡つかないなっていうときもありますからね。
諦めてむこうは出てるのに「堀田です」って追い討ちをかけるようなことを言ってるんですよね。なんで言うかというと、電話のかけ方を習ったときに、そうやって覚えたんですよね、名を名乗れと。
だけど、携帯って名前は出るし、だいたい学生なんて見てると「今、どこ?」とか「今いい?」とか。家の電話なんて「今、どこ?」って「家に決まってるだろ」って言われるでしょ?
こう考えてみるとね、メディアが変わったから、ぼくらの教わってきた当たり前のルールというかマナーも、これも変わりつつある。社会に影響を及ぼしているってことですね。
だから、新しいマナーとかルールを教えなきゃいけない。学校で。そういう時代がきてるんです。
だって、ぼくら電話のマナーを教わったけど、電話がなかった頃は教えてなかったでしょ、きっと。教えても意味ないし。電話が今携帯になって、携帯のマナーをちゃんと教えなきゃいけないんですよ。

もう1つ、「えなりかずき」知ってます?お友達ですか?「えなりかずき」ってどういう人ですか?だいたい大人びたことを言う、こましゃくれたと思うけど、あれは「渡る世間は鬼ばかり」の役柄なんですよね。それを受けて、いろいろなところでああいう言い方をしているんですよね。ぼくらはTVの影響をすごく受けているですよ。「えなりかずき」っていうのはこうだ、「モーニング娘。」っていうのはこうだ、みたいなね。
情報の価値は受け手が決める、と書きました。結局、ぼくらはたくさんのメディアを使い、メディアから情報を受け、だけどもさっきのうように鵜呑みにしている。
疑うわけじゃなく、それは1つの役なんだよねとか、そういう冷静な判断ができないときがある。それは珍しいからニュースになっているんですよね。
そういうふうに鵜呑みにしてしまってるとしたら、これは問題がある。それを子どもにも、あるいはみなさんの学校の保護者にも、ちゃんと伝えていって欲しいと思うわけです。

昨日、元吉原小学校、ちょうど校内研でぼく行って来ました。昨日の授業です。
こういうポスター見たことありますかね?これ、何のポスターか分かります?左は、お酒ですね。でも、お酒よりも俳優さんの方が大きいです。右は、掃除機なんですけど、掃除機ちょっとでしょ?普通掃除機が大きくて、女の人が小さいと思うけど、逆なんですよね。なぜですか?ねぇ?それがポスター作りのコツな訳ですよ。これいっぱいある。
昨日取り上げてたのは4年生で、このポスターです。子どもたちは自分たちの活動を、実はポスター作りをしています。コンピュータを使って。結構いいポスターが出来ています。出来ていますが、ここで揺さぶるために、4年生の担任の先生と吉野先生、二人でTTでやってますけど、このポスターを投入した。
そして、「このポスター何のポスターなの?」「一番最初に目に入ったのは何?」みんな「モー娘。」という。子どもは詳しくて、「先生、これ古いよ。メンバーが違う」とかね、すごいことになる。
これはさわやかな感じとか、モーニング娘が人気でモーニング娘に目をひいて、そのあとクーラーに目を向けてもらえば、エアコンの宣伝だってのが分かるけど、エアコンはモー娘を見た後見ればよいんだよ、といようなこととか。緑色にしているのは、さわやかな感じを出しているんだとかね。子どもによっては、「男をひきつけようとしている」という発言があって、すごいことになっているなぁと思いながら、ぼくは絶句していましたけど。こんな感じでT1,T2で授業を進めていました。
出てきた子どもたちの意見は、「キャッチコピーを工夫している」。子どもたちは、キャッチコピーの勉強をしているので、いうのをキャッチコピーって言うのを知っているんですよね。
この「かいてき3まい」と書いて、「ざんまい」と読みますけど。ざんまいって何よみたいな、言葉の指導も含めて、ずっと快適だ。そういうふうに、ラーメンざんまいとか、ごくらくざんまいとか、ゲームざんまいとか、なんか家で言うと。よく分からなかったけど、それは、こういう意味なんだということが一緒に分かってきます。そういうキャッチコピーに工夫しているという、という話とか。
でやっぱり、何でモー娘なんだという話が出てくる。つい目をひく、ついみいるとか。「みいる」とか難しい言葉が出てきて、また国語の指導になってましたけど、そういうようなことですね。
だからといって、経済の問題とか、出演料の問題とか、それがエアコンの値段に上乗せされているなという話は4年生では分かりません。これは、さっきのHPを作る学習が、いろいろな学習になるように、ポスターを分析するという学習は他にもいろいろ教えられるということを意味していますが、4年生なのでここでやめます。
ここでやめてどうしたかというと、「で、あなたたちの作ったポスターは、そういうふうに自分の伝えたいことを相手に上手く伝わるように、工夫しているの?」と。「例えば、緑に統一していたけど、あなたたちのはどうしてこの背景なの?」「なんとかさんがやってたから」とか「キレイだった」「見つけたから」とか。そういう、「あなたは思いを伝える表現ちゃんとをしてるの?」
実は、この授業に入る前は、この子達は、もう精一杯作ったこのポスターは、これ以上よくならないと思ってたんです、実は。でもこの授業で揺さぶられて、「あぁ、もうちょっと工夫が足りなかった。やっぱりまだ甘かった」って思う。そうやってステップアップしていくんですね。
これは、ポスターを作って発信するという学習をやっているから、読み解き学習の意味があるんですよ。そして読み解き学習をすぐ発信に返ってくるんですよね。さっきの循環の話ですね。
これを単にポスターの分析をしたら、評論家みたい。いずれ「特ダネ」なんかに出演できるようになるかもしれませんけども。評論家を育てても意味がない。実践力になるには、作りながら分析する、というのをやらせないといけないと思います。
そして、この子たちのさっきの写真、ご覧になりましたけど、こういう合成写真を作った活動がこれが生きていて、さっきのモー娘のポスター、実は足が少し消されているんですよね。とかちゃんと見抜いてて、本当は台に乗っているはずなんだけど、台は消されてて、ポスターにいらないことは削られているとか。そういう話は、
つまりこれを学校カリキュラムでやっていてるので、前にやった学習がずーっと後ろで効いてくる。だからキャッチコピーも出てくるし、今みたいな合成写真から分かったことが出てくる。継続的指導をするということが大事。
メディアとのつきあい方学習は一発指導じゃ駄目なんですよね。何か知識を与えたら、それが生きる場をちゃんと用意しないといけない。でも、これは考えてみると、他の教科指導でも同じですよね。同じように、繰り返し繰り返しいろいろな場面で教えていかないといけない、そういう内容です。

まとめると、制作をする学習、発信型の学習と、読み解く学習、受信型の学習、これはぐるぐる回ることが大事で、制作するときにこうやったらうまく伝わるかな、こういう工夫したらいいかなっていう、工夫をそれなりにしているからこそ、読み解ったときに、なるほどこうやっているから上手くいくのかということが理解できるし、そしてそれがすぐに、だからぼくもやってみようというふうになる。これが分断されていない、ぐるぐる回るような構造に学習過程がなっているかどうかが、この手の指導の1つの重要なポイントです。

「給食るるぶ」のさっき話が出ましたけど、「給食るるぶ」の高橋実践っていうのは、そういうことになっているんですね。毎日食べてるんですよ、この給食。当番でるるぶ作ることになった子は、別に鮭を好きかどうかは分からないんですよ。好きじゃなくてもおいしいということにして、撮らないといけない。
その温泉を紹介する、るるぶの人は「この温泉イケてないなぁ」と思っていたかもしれない、みたいなことを垣間見るわけですよ。雑誌とか新聞とかいうのは、もちろん記事の内容、質によっていろいろ違うんだけども、そういう宿命みたいなのがある。そういうことを、日々の子どもたちの半分遊びの活動の中から、ずっと気づかせていくという、そういう息の長い単元作りだったわけです。

こういう学習をしていると、やったことの学習の質が変わってきます。
例えばこの元吉原小学校に貼ってある、普通の子どもが作った普通のポスターですけど、どこの学校でも、デジカメで撮ったものをパソコンに取り込んで何か印刷するというのは、操作指導の中でやっていると思います。ポスター作りみたいなものも、たぶんやっている。
こういう感じのポスターになっていますか?例えば、キャッチコピーに気をつけるとか、写真の大きさでいろいろ工夫しているとか、やっていますか?つまり、情報の内容の学習をやっていると、変わってくるんですよ。単に貼って、字を大きくしましたじゃなくて、その字はどういう字か、それはなぜか、ぼくらが伝えたいのはこれだから、じゃあ写真は本当にそれでいいのか、みたいな問い直しをしているからこそ、出来上がったもののクオリティーが高い。そして、そういうふうにプロは作っているということを、一緒に社会とつなげてみていく、ということになるわけです。

メディアとのつきあい方学習、これは学習なので指導内容を含むわけですけど、教えるべきことは3つあるとぼくは思っています。
1つ目は、メディアの特性をちゃんと知って、それをうまく使う、自分がね、生活の中で。だから、ポスターを作るといっても、こういう特色がある、ITにはこういう特色がある、デジカメはこういう特色がある、字を大きく出来るというパソコンの特色がある、そういうものを使って、自分の思いを表現する。ただパソコンを使ってただ表現をするんじゃなくて、特性を知ってその特性を使って表現する。だから場合によっては、パソコンを使わないという選択も十分にあるわけですよね。
2つ目、これも今まで言ってきたように、メディアというのは、私たちの生活に深く入り込んでいて、そしてそれが影響を与えているということを、ちゃんと教えていく、ということ。
3つ目は、そういうメディア社会で安全にくらしていく、あるいは望ましいメディア社会を形成していく、そういう態度、資質を子どもたちにつけさせていくこと。
この3つですね。ちょっといろいろ事件があった関係で、3つ目がクローズアップされている感じがあります。それが別に悪いことだとは思いませんけど、単に「心を育てろ、心を育てろ」と言っただけでどうなるか、「インターネットを触らせるな、触らせるな」と言ったところでどうなるか。それは、どうしても不十分な指導になる。
やっぱりメディアの特性を知識として知らないと、そこから先、安全に暮らしていけないこともあるし、ぼくらがどうやって影響を受けているかをちゃんと認識していないと、自分の判断が狂うときもある。
3つが一緒にというか、3つが満足されるように教えることが大事だというふうに考えています。

まとめましょう。時間があと2分なので、2分間でまとめます。
情報教育の現状、みなさんの学校で言うところの情報教育は、どうでしょう?コンピュータの使い方学習にとどまってないでしょうか?本当は、文部科学省の定義は違います。ちゃんと情報教育が定義されていますが、そのことはあまり伝わっていなくて、コンピュータが来たから教えなきゃいけない、私コンピュータ苦手だから私は情報教育やらない、みたいになっていませんでしょうか?
コンピュータ教育じゃなくて、情報教育です。情報を長年扱っている皆さんは、まだ大して扱っていない子どもたちに教えられることがたくさんあります。
現状認識、情報社会に生きている子どもたちの現状を、どれだけ学校が捉えているでしょうか。管理職は特に。捉えてるでしょうか?
メディアとのつきあい方学習をやっていくと、学習している内容やあるいは学習成果にリアリティが出てきます。なぜかと言うと、それは現実社会を相手にした学習だから。つまり、それは一種ぼくは情報生活論みたいなものだとおもいますけど、生活者としての情報を、情報社会を考えるという学習だからだと思いますね。技術者としての情報を扱うというと、コンピュータの操作とかコンピュータの仕組みとか、そういう話になるけど、生活者の、というと必ずしも、コンピュータの中の仕組みよりも、コンピュータが形作っている社会の仕組みの方が意味がある。
例えば、冷蔵庫の仕組みとかを知らなくても、冷蔵庫を使いこなしているでしょ?生活者としてね。それと同じです。何も中のOSがどうだとか、そういうことは良いんですよ。上手い人に任せておいけば、だけど、それを使いこなして、私たちは、こういうふうに授業で教えてる、こうやって教材研究、インタネットを使っているとか、そういう生活レベルでの感覚というのが大事です。
コンピュータが得意な教員、これいないんですよね不思議なことに。いなから上手くでできるんでだと思うんですけど。「いないからやれない」という学校ないですか?いないから出来るんです。いたらね、コンピュータの話にすぐなっちゃうんですよ。途中から訳分からなくなって引いちゃうでしょ?いないから出来るんです。いないところでやってください。
学校カリキュラムとか、TTの指導体制がどういう風になっているか、是非現実を見て欲しい。
それに、メディアとか子どもとかのことは、不幸な事件があったからだけども、ちゃんとやらなきゃいけないという追い風です。ぜひ、この機会に、皆さんや、皆さんの周りの先生、あるいは校長先生に、元吉原小学校をみてもらう。そういうようなチャンスを作っていただければと思います。
で、疑似体験の話がでましたけど、必ずしも直接体験できないことは、よいリソースがある。例えば、NHKの番組にいいものがあります。

時間が来ましたので、ぼくの講演はこれで終わります。どうもありがとうございました。